【ネット表現・N国党】表現の自由はどこに向かうのか?

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NHKから国民を守る党(以下「N国党」)の代表・立花氏が、N国党のことを「気持ち悪い」等と批判したマツコ・デラックスさんに激高し、「5時に夢中!」の生放送が行われているTOKYO MXに抗議に出向くなど、彼の一連の行動がにわかに批判を浴びています。

 

ここで問題とされているのは、現職の国会議員が、一般国民の表現活動に圧力をかけるような抗議を行っているという点です。小林よしのりさんは立花氏の行動を「言論弾圧」と断じていますね。

 

N国代表は数々の特権を持つ国会議員である。
もう権力者の側にいるのだ。
彼は国民が払う税金で働き、食う身分である。
主権者たる国民によって仕事をさせてもらえる身分なのだ。

マツコ・デラックスはたくさん税金を払っているだろうから、N国代表はマツコに食わせてもらっているのだ。
なぜマツコの言論を弾圧できる?

権力者が国民の言論を封じる、これを「言論弾圧」という。
マツコは「言論弾圧」に負けてはいけない。
自由にN党を批判せよ!
やはりN党には「公」がないのである!

(小林よしのりオフィシャルWebサイト「マツコ・デラックスはN党・権力者の言論弾圧に負けるな 」より引用)

 

私は、この意見に対して、違和感を感じています。

と言うのも、小林さんは立花氏のことを「権力者の側」とポジショニングしたうえで、「国家権力」対「私人」という対立関係を想起していますが、この問題に関してはどうしてもそのように思えないからです。そもそも「言論弾圧」とは思えないですし。

 

これが、表現の自由の現代的課題を如実に表わしていると思うため、少し書いていきます。

 

 

立花氏の抗議は「言論弾圧」か?

私は、立花氏の行動を非常識だと思うものの、「言論弾圧」とまでは思いません。

 

と言いますのも、立花氏は、「放送をやめろ」「マツコを番組から降ろせ」と言っているわけではなく、「反論の機会を付与せよ」「正々堂々と議論せよ」と抗議しているのであって、国民の言論を封じる意図が無いことは明白です。

それどころか、国民の言論活動の中に飛び込んでいって、白黒はっきりつけようとしているのです。これを言論弾圧と言うなら、「国会議員は市民活動をするな」「国会議員は私人間の討論に参加するな」と言っているのと同じです。

 

また、マツコさんはマスメディアに属する人気テレビタレントとして、一般国民とは比べものにならないほどの発言力・影響力を持っている一方で、立花氏はまだ国会議員1年生です。この2人を比較すると、マツコさんの方がよっぽど「権力側の人間」ですよ。

それなのに、立花氏が国会議員であるという一事をもって、彼の行動を「言論弾圧」と非難するのはあまりにも形式的な議論であり、事実上の上下関係を無視している印象を受けます。

 

さらに、国民の表現活動が委縮してしまうおそれ(いわゆる「委縮効果論」)についても触れておきます。

一般的に、表現活動に対する「委縮効果」とは、政府が表現規制の一環として罰則を課すなど、表現の委縮に繋がる明確なディスアドバンテージが存在する場合を想定しています。言葉遣いが畏怖感情を抱かせるようなものだとか、態度が威圧的だとか、そのような抽象的な理由で表現の委縮効果が説かれることはありません。

(もし、これを肯定するならば、反対解釈として、優しい言葉遣いであれば国民の言論活動にいくらでも圧力をかけてもいいということになりかねません)

 

というわけで、私は、特に言論弾圧とは思いません。

小林さんは、立花氏の抗議について、「国会議員としての品位を欠く非常識な行動だ」と非難すればいいのであって、何でもかんでも表現の自由と結びつけて「言論弾圧だ」と軽々に論ずるのは如何なものかと思ってしまいますね。

 

「権力側の人間」であることが問題ではない。

はい、言論弾圧についてはこのぐらいでいいでしょう。

むしろ、ここからが本題です。

 

小林さんは、立花氏を「権力側の人間」と位置付け、権力側の人間が私人の表現活動に圧力をかけていることが問題だとしています。日本の統治構造からすれば、この問題提起はそのとおりなんですが、問題の本質は本当にそこなんですかね…?

繰り返しになりますが、そういう立論をするのであれば、マツコさんだって権力側の人間じゃないかって話になりますしね。

 

私はこう思います。

今回の立花氏の抗議にインパクトを感じるのは、彼が国会議員だからではなく、ネット上で一定の支持を集める人気Youtuberだからのように感じるのです。仮に、立花氏が全く無名の国会議員だったとしたら、今回の一件についてもたぶん鼻で笑われて終わりでしょう。

だとすれば、立花氏が国会議員であるかどうかなんて、実は大した問題ではなく、「ある程度民意を左右することのできるインフルエンサー」という点こそ重視されなければならないと思えてきます。

 

私は、このインフルエンサーの存在こそが、現代における表現の自由を「良い意味」でも「悪い意味」でも変容させていると考えています。

 

現代の権利意識とネット表現が果たすべき役割

インフルエンサーのことを話す前に、少し前置きを。。

 

ネット表現手法が多様化した現代において、国民は情報の送り手としての地位を獲得するに至りましたが、ネット社会における「表現の自由」の権利意識は、従来のマスメディアのそれとはまるで違います。

 

例えば、SNS等において、自分の意見が否定ないし批判されると、「嫌なら見なければいい」と言って反対意見を遠ざけようとする人がいます。その背景には、「自己実現を達成するために、誰からも邪魔されずに表現活動を行う自由」という意味における「表現の自由」の権利意識があるように思います。これがネット社会全体に蔓延しています。

 

しかし、これは「表現の自由」の意義をはき違えています。

歴史的経緯に照らして、「表現の自由」とは、「表現活動の国家権力からの自由」を意味しており、「他者から批判されない自由」を含むものでないことは明白です。当然、表現に接した他者からすれば、表現の自由の一環として批判する自由があるわけで、「批判されるのが嫌なんだったら最初から表現しなければいい」って話になります。

 

じゃあ、なんでそういう本来の意味とは異なる権利意識が根付いてしまったかと言うと、現代のネット社会においては、「自身の意見に直接アクセスしてくるユーザー」や「利用規約等で禁止コンテンツを定めるプラットフォーム」といった目前の私人こそが表現者の "敵" であり、表現の自由を「国家権力からの自由」という従来の意味ではなく、「自己実現を妨げる者からの自由」という広い意味で再構築する必要があったからだと個人的に考えています。

 

このように、自己実現を軸に考えるのが、現代における表現の自由の権利意識の正体ではなかろうかと。しかし、この考え方には「民主政への関与」「民主政の発展」という重大な視点が抜け落ちています。

 

そもそも、なぜ近代立憲主義社会において、表現の自由が保障されるに至ったか。

それは、政治的プロパガンダであろうが、国家に敵対する言論であろうが、それが公共の福祉を害するようなものでない限り、いったん議論のテーブルに乗せることを認めたうえで、真実性や妥当性のチェックについては民主政のプロセスに委ねて、その過程において様々な意見を戦わせることにより、真実に反する主張や妥当性を欠く主張は自ずと淘汰され、人類は真理に近づけるはずだ…という理解が背景にあり、このような表現の自由が持つ真理発見機能が民主政の発展にとって必要不可欠だったからに他なりません。議会制民主主義もこの理解を前提としています。

 

民主政の過程における「強い表現者」

上記の理解を前提とすれば、ネット表現とは、単に自己実現を達成するための手段にとどまらず、権力に対抗するための手段でもあると言えるわけです。

もちろん、これまでも「インフルエンサー」と呼ばれる人たちが、政権を批判するような言論活動をTwitter等で行っていて、重要な役割を担ってきたんですけど、テレビに出ているコメンテーターと同じで、民主政への関与は間接的・限定的でした。

 

そこにきて、立花氏のような民主政に直接関与する「強い表現者」が初めて出てきたのです。

立花氏は、口が達者というだけでなく、多少の批判であれば跳ね返すことのできる理論を持っているし、「NHKをぶっ壊す!」という国民の潜在的な問題意識に訴えるメッセージを効果的に使ったり、NHK職員との政治的口論をショーとして見せるなど、権力を打倒するために必要となる「強さ」を持っています。これがネット民に支持されて、議席を獲得するに至ったのです。

(従来の「インフルエンサー」の枠を超えた強さを持っていることから、「強い表現者」と勝手に呼ばせて頂いています)

 

このような「強い表現者」の存在は、ネット表現を「単なる自己実現のための手段」から「権力に対抗するための手段」にまで押し上げた点で非常に有意義だと思います。「横の関係」から「縦の関係」に変えたとでも言いましょうか。間違いなく表現の自由の現代的変容のうち、最も特徴的・象徴的な出来事でしょう。

 

小林さんは、立花氏の国会議員としての地位を形式的に捉えるのではなくて、なぜ有権者から支持を集めるに至ったのか、表現者としての特徴を見た方が良いと思いますね。

そうでなければ、なぜネット民が、立花氏のことを「既得権益に立ち向かう国民の代弁者」と捉え、マツコさんのことを「打倒すべき権力側の人間」と捉えているかが分からないと思います。

 

民主政の過程における「弱い表現者」

確かに、立花氏のような「強い表現者」は、これからのネット表現において歓迎されるべきであるし、民主政の発展に欠かすことのできない存在だと言えますが、その一方で、結局のところ、民主政に直接関与できるのは「強い表現者」だけであり、「弱い表現者」である大多数の国民は、「強い表現者」に依存することでしか権力に対抗できないということを再度確認したにすぎない…という見方も可能だと思います。

 

例えば、N国党への批判に対して、立花氏は、自身のYoutubeチャンネルでいくらでも反論できるけれども、それ以外の人はほとんど有効な対抗手段を持ちません。「強い表現者」である立花氏に頼ることでしか権力に対抗できないのです。反論権などを認めるなら話は別ですが、法令の根拠がなく判例も否定的ですしね。

 

このように、「弱い表現者」が「強い表現者」に依存してしまう宗教的な構造が、表現の自由の現代的課題だと私は考えています。

「力を持たない視聴者」が「テレビタレント」を信奉するのと同じように見えますが、テレビタレントは少なからずスポンサーの意向に左右されるのに対して、ネット表現者にそのようなしがらみはありません。凄い悪い言い方をすれば、「しがらみのない権力者」になってしまう危険性を秘めていることが、今回の問題の本質ではないかと思います。

(立花氏は、公営放送のスクランブル化以外は、直接民主主義によると公言していますが)

 

引きこもりに関する一連の報道・論調と「日本の切り札」論について

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すみません、以下に記すことは、個人の主観と憶測が多分に含まれています。

 

引きこもりの息子(44歳)を殺害した元事務次官の男性(76歳)について、警察に連行される姿を見ていると、私の勝手な印象で申し訳ありませんが、「やっと終わった」という安堵の表情を浮かべているように見えます。

 

行政のトップを務めた方ですから、おそらく、従前から、中高年の引きこもりに関する問題を熟知されていたはずです。

今さら就職するのはほぼ無理であり、このまま自分たちの財産で食い潰させるしかないことも知っていたし、就労していない息子が将来年金を受給することにでもなれば*1、納税の義務を果たしている国民から大きな反感を買うことも知っていたはずです。

 

また、「社会に迷惑をかけるぐらいなら、1人で勝手に死んでくれ」という世論が存在することも十分に理解していたはずです。

川崎殺傷事件の報道を見て、より一層そのことを強く認識したんじゃないかと想像します。「願わくば、私の息子も、人様に迷惑をかけることなく、1人で死んでくれ」と。

 

そして事件当日を迎えてしまった。

「小学校に乗り込む」とキレる息子を見て、川崎殺傷事件の犯人の姿が重なる。もし、凶行に及べば、只事では済まない。何の罪もない犠牲者が生まれ、元事務次官の息子による犯行ということでメディアが騒ぎ立てる。自身の面子は潰れ、家族を含めて一生非難され続けることになる。

犠牲者が出てしまう前に、自分がやるしかない。自分が息子を "終わらせるしかない" 。私はどうしてもそういうストーリーを想像してしまいます。

 

おそらく、この事件は氷山の一角です。

全国に60万人以上いると言われている40歳以上の引きこもりの家庭には、親子関係が破綻している家庭がたくさんあるのでしょう。

元事務次官が息子を刺し殺したというニュースを聞いて、これを他人事だと思える親子は少なくないはずです。

 

ニート・引きこもりは日本の切り札である。

そのような引きこもりの問題に対して、ここから先は自論を。

 

私は、割と本気で、「ニート・引きこもりはグローバル社会を切り開くための日本の切り札になる」と思っています。

 

「は?頭おかしいんじゃねえの」と言われるかもしれないですね。

しかし、ニートや引きこもりが「価値のない人間」「生きている資格のない人間」と陰で揶揄されていることに対して、無理矢理にアンチテーゼを唱えているわけではないんです。本当に「切り札」だと思っているから、そう言っています。

 

ちなみに、現在勤めている会社で英語の社内公用語化を推進している帰国子女の妻に、この話をすると、笑うどころか、真顔で賛同してくれます。「いや、本当にその通りかもしれない」と。

 

このことを説明するために、少し話題を逸らします。

 

皆さんは、日本人の英語力が、伸びているどころか、"落ちている" という事実をご存知でしょうか?

EF EPI(英語能力指数)の国別ランキングにおいて、日本は、88か国中49位であり、これは過去最低の順位です。スコアも「低い」に分類されています(ランキングが開始された当初は「標準」だった)。

ceburyugaku.jp

 

日本における語学学習の市場規模は年々拡大しており、英語学習に対する気運が高まっているにもかかわらず…です。日本人は、英語を勉強する意欲もあるし、英語学習にお金もかけているのに、ほとんど伸びていないのです。

 

この原因について、私と妻の意見は一致しています。

日本人が英語を習得できない理由、それは、圧倒的に英語を勉強する「時間」が足りていないからです。

 

一般的に、英語を習得するために必要となる学習時間の目安は『3000時間』と言われていますが、日本人は、中学・高校の6年間で1000時間ぐらいしか勉強していないので、単純に2000時間足りません。

 

では仮に、1日1時間勉強したとしましょう。これを毎日欠かすことなく1年間続ければ1年で365時間。これを5年半継続すれば2000時間に到達します。

なお、1回当たりのレッスン時間が30分のオンライン英会話しかやらないのであれば、2000時間に到達するまでに11年かかる計算になります。

 

頑張って1日3時間勉強したとしても、2000時間を達成するには、2年弱かかります。

つまり、効果を実感するまでの期間が長期化しやすいために、途中で挫折してしまう人が非常に多いのです。

最初はモチベーションが高かったとしても、途中で「これ、意味あるのか?」と疑問を感じて、英語の勉強をやめてしまった人も多いのではないでしょうか。

 

しかも、3000時間というのは最低限のレベルの話。

アメリカ居住歴8年の妻曰く、「実務において、レベルの高い英語を使えるようになりたいのであれば、最低でも1万時間ぐらい必要」と言います(もちろん、個人差はあると思いますが)。

 

働きながら勉強している社会人にとって、1万時間というのは途方もない数字です。

1日1時間しか勉強できないのであれば、1万時間を達成するまでに、27年かかります。1日3時間勉強したとしても、9年かかります。はっきり言いますが、これは並の社会人には無理です。

帰国子女や長期にわたって海外留学をした人にどうやっても英語力で勝てないのは、英語の学習時間に絶対的な差があるからです。「環境」の差だけではありません。これは「時間」の差なのです。

 

しかし、1日24時間をオールフリーで使うことのできるニート・引きこもりは事情が変わります。

 

極端なことを言えば、睡眠・食事・入浴以外の時間はすべて勉強に費やすことができ、そうすれば、どんなに低く見積もっても、1日10時間以上の勉強時間を確保することができます。

もし、1日10時間の勉強を1年間継続すれば、1年で3650時間。英語を習得するために必要とされている3000時間を1年未満でクリアできます。

それどころか、3年継続すれば、トータルの勉強時間が1万時間を超えます。1日1時間しか勉強できない社会人が27年かかるところを、ニート・引きこもりの人は、たった3年で到達することができるのです。

 

本当にそれだけ勉強できるのか…という問題はありますが、ニート・引きこもりの人たちが、「時間」という最強のアドバンテージを持っていることに違いありません。彼らはそれに気づいていないだけで。

妻も、そう考えると、英語を習得できる位置に一番近いのは、ニート・引きこもりの人たちだと同意しています。

 

「就職」がゴールじゃなくても良い。

ただし、英語が話せるだけだったら、帰国子女や海外留学経験者を雇った方が確実と考える企業も多いと思います。「経験」を重視する日本企業では尚更です。

(帰国子女や海外留学経験者とタメを張れるぐらいのぶっちぎりの英語力を持っていれば、もはや関係ないと思いますけどね。英語系YoutuberのAtsuさんも、日本に居ながらにして、高度な英語力を習得し、オーストラリアの会計事務所に就職しています)

 

しかし、それは、あくまでも企業に就職することを念頭に置くから、そういう結論になってしまうのであって、私は、目指すべきゴールは「就職」ではなく、「起業」とかでも良いと思っています。

ホリエモンこと堀江氏も、「ニートこそ起業しろ!」と自論を唱えられています。

horiemon.com

 

私も、この意見には大賛成です。

英語が出来れば、日本なんか比にならないぐらい規模がデカい海外マーケットも視野に入れて、ビジネスを展開できます。日本人がなかなか切り込んでいけないマーケットにもチャレンジできるわけです。まさにグローバル社会を切り開くための「日本の切り札」でしょう?

 

しかし、「働いたこともないのに、起業なんて無理」「まずはアルバイトから」などと、頭でっかちなお役所の人間たちは考えていて、ニート・引きこもりの人たちを既存の就労支援の枠組みの中でしかサポートしようとしません。

もちろん、精神的な障害などを抱えている人に対して、自立支援を行うことは必要なんですけど、精神的・社会的に自立させて、人手が足りていないブラック業界にぶち込む…というような底辺の扱いをして、「無価値」というレッテルを貼ってるのは、紛れもなく国や自治体じゃないかと思います(しかも、そういう就労支援は大抵「39歳まで」です)。

 

あのさ。日本社会からはみ出してしまった人達を、なぜ無理やりもう一度日本社会の歯車に戻そうとするのさ?それが合わないから、引きこもってしまったわけでしょう?

レールから外れてしまったのであれば、とことん外れれば良い。とことん突き抜けた人材になってもらえれば良い。そういう発想はないのかな。ニートの語学留学支援とか、ニートの創業支援とかドンドンやれば良いじゃん。そう強く思います。

(もう既にやっているという自治体さんがいらっしゃったらすみません。私の知識不足です)

 

おわりに

上述のとおり、個人的には、ニート・引きこもりの人には「時間」というアドバンテージが存在するのに、他の社会人と同じゴールを目指そうとさせるから無理が生じているように思えます。

そうすると、どうしても「価値が無い」ということになってしまう。同じことができないからです。しかし、そうじゃない。彼らにしか発揮できない価値は絶対にある。視点を変えれば、ニート・引きこもりの人たちだって、「日本の貴重な人的資源」になりえます。私からすれば、ニート・引きこもりの人たちは、ある意味「無敵の人」なのです。

 

*1:親が子どもの年金保険料を支払っていることが前提。

少年革命家・ゆたぼん君を持ち上げている周囲の大人に思うこと。

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最近、「ロボットになりたくない」との理由で、不登校を貫いている「少年革命家」こと、ゆたぼん君が話題になっとりますが、個人的には、ゆたぼん君を持ち上げている周囲の大人に対して、ちょっと思うことがあります。

 

なお、ゆたぼん君の詳細事項については割愛します。なぜ、彼が話題になっているのか知りたい方は、各自お調べください。

 

10歳の子どもを過大評価しすぎ。

10歳ぐらいの子どもは、確固たる思想とかイデオロギーなんか持って無くて、「体験」を積み重ねている最中です。教師から叱られたり、友達と喧嘩したり、親と衝突したり、そういった「体験」を積み重ねていって、確たる "人格" を作っている過程なのです。

 

だから、本人(とお父さん)には大変失礼だけれど、「学校に行かない」という生き方を裏付ける立派な考えが、仮にゆたぼん君にあったとしても、それは年齢を重ねるにつれて容易に変わってしまう可動的なものであって、そのような子どもの考え方を、周囲の大人が支持しているのを見ると、酷く滑稽に見えてしまうのが本音です。

 

というのも、ゆたぼん君の考え方を支持している茂木さんや堀江さんは、ちゃんと大学を出ており(ただし、堀江さんは大学中退)、日本の学校教育がどういうものなのかを「体験」しています。つまり、自身の考え方を裏付ける「体験」があるのです。

しかし、ゆたぼん君にはそれがない。「学校に行かなくても良い」という考え方は、一見すると茂木さんや堀江さんと同じに見えるけれど、その意味は全然違っていて、裏付けとなる「体験」がないから、今後変わってしまう可能性を秘めています。

 

例えば、徐々に世間がゆたぼん君に対する興味を失い、Youtube動画の再生回数が伸びなくなった結果、かつて自分に向けられていた注目は一過性のものだったと気づき、自分の将来に漠然とした不安を抱く日が来るかもしれません。

あるいは、自分は自由に生きているように見えて、実は、父親に支えられて生きているということに気づき、それと同時に、自分の力で稼ぐことがどれだけ大変かを思い知り、日本が「学歴」や「経歴」によって支配されているヒエラルキー社会である現実に直面する日が来るかもしれません。

あるいは、ロボットみたいだと思っていた同級生たちが、大企業に就職したり、官僚になったり、海外に勤務したり、医者や弁護士といった専門職に就いたり、社会で活躍している姿を見て、そのような同級生たちを「羨ましい」と思う日が来るかもしれません。

 

茂木さんや堀江さんは、そういった日本社会の既存構造を熟知したうえで、それでも学校教育に「NO」と言える体験を持っているけれど、ゆたぼん君が、様々な社会経験を経て、同じ考えに達するとは限らない。「やっぱり学校に行っとけば良かった」という考え方に至るかもしれない。そういう危うさを持っているのです。

ゆたぼん君を1人の「人間」として尊重することは当然としても、1人の「大人」と見ることはできません。彼はまだ10歳の子どもなんです。ゆたぼん君を持ち上げている周囲の大人を見ていると、その点をあまりにも軽視しすぎではないかと思えてなりません。

 

ゆたぼん君は自己責任が取れない。

一方、ゆたぼん君を持ち上げている大人たちは、こんなことを言うかもしれません。

「未来のことを恐れていたら、何も挑戦できない。失敗を重ねながら成長していけば良いじゃないか」と。

 

この理屈は、「自分の選択に対して、自分で責任が取れる人」に言うのであれば、その通りだと思います。

自分の選択によって、どのような利益がもたらされるのか、あるいは、どのような不利益を被るのかを心から理解したうえで、真に自由な意思に基づく公平な判断を下したのであれば、結果に対する「自己責任」が生じ、その経験を生かすも殺すも、「自分の問題」と言えるからです。

 

じゃあ、ゆたぼん君が、「学校に行かない」という選択をしたことによって、何らかの不利益を被った場合、それは「自己責任」という話になるでしょうか。「お前が選んだ人生なんだから、自分で責任を取れよ」と突き放せるでしょうか。

私はそう思いません。なぜなら、「学校に行かない」という選択が、ゆたぼん君の自由な意思に基づく公平な判断だと思えないからです。

 

繰り返しになりますが、子どもは「体験」を積み重ねている発展途上であり、物事の是非弁別を判断するための知識や能力に乏しい状況にあります。

それゆえ、判断能力の欠乏を理由として、子どもが不利益を被らないように、未成年者の飲酒・喫煙を禁止したり、深夜労働を禁止したり、14歳未満の子どもの刑事責任能力を否定する*1などして、国家は後見的に子どもの権利を守っているのです。

 

義務教育制度も同様の趣旨です。

子どもは「教育を受ける権利」を有していますが、どのような教育が、国家・社会の構成員としてふさわしい最低限の基盤となる資質の育成に資するものであるか、又は、人格の完成に必要不可欠のものであるか、子どもには判断できませんし、その判断を各家庭に委ねていたら、子どもの教育を受ける機会が不当に奪われるおそれもあります。

そのため、同級生からイジメられているとか、教師から体罰を受けているといった「正当な理由」のない限り、親は、子どもを学校に通わせて、教育を受けさせる義務を負い、その反面として、子どもの教育を受ける権利を社会的に保障しているのです。

けだし、憲法がかように保護者に子女を就学せしむべき義務を課しているのは、単に普通教育が民主国家の存立、繁栄のために必要であるという国家的要請だけによるものではなくして、それがまた子女の人格の完成に必要欠くべからざるものであるということから、親の本来有している子女を教育すべき義務を完うせしめんとする趣旨に出たものである。

(昭和39年2月26日最高裁大法廷判決)

 

この義務教育制度の枠内で見る限り、ゆたぼん君が「学校に行かない」と選択しても、それは知識や能力が乏しい時分における "自由意思に基づかない" 判断であって、その判断から生じた不利益に対して、ゆたぼん君に責任を押し付けることは出来ません。どんなに格好いいことを言っても、彼は自己責任を取れないのです。

そんなゆたぼん君に対して、「失敗しても良い」「失敗を次に活かしていけば良い」なんて、あまりに酷な言葉だと思いませんかね。

 

さいごに

もちろん、ゆたぼん君が大人になったときに、「学校なんて無意味だった。自分の判断は正しかった」と思うかもしれないし、そういう人生であって欲しいと願いますが、せめて義務教育を受けてから、そう判断しても遅くないんじゃない?と思います。

ゆたぼん君は、たまに気まぐれで、学校に出席することもあるらしいので、「学校に行きたくても行けない不登校児」とは違います。「学校に行こうと思えば行ける不登校児」なのです。学校がいかに無意味な場所であるか検証できる立場にあるのだから、行けば良いと思うんですけどね。

 

あと彼は、学校教育を受けることによって、「ロボットになるかもしれない」と恐れていますが、ゆたぼん君に賛同している茂木さん、堀江さん、ダルビッシュさんは、学校教育を受けてきたものの、ロボットみたいな人間にはなっていません。ビジネスやスポーツの分野で、グローバルに活躍されています。

だとしたら、「学校教育を受けてもロボットになるとは限らない」と分かると思うんですけど、なぜそこまで恐れるのでしょう。もし、私がゆたぼん君の父親の立場で、ゆたぼん君から「ロボットになるかもしれない」と相談されたら、「大丈夫。お前は絶対にロボットになんかならん!」と諭しますけどね。

 

*1:刑法第41条

在学中の司法試験の受験を認める?これからのロースクール制度について。

いやぁ、司法試験制度・法科大学院制度をめぐって、国の対応は迷走しまくってますね。法科大学院在学中に司法試験の受験を認める制度変更を検討しているそうですよ。

www.bengo4.com

 

確かに、この制度変更に批判が集まるのは分かります。「何のためのロースクールだよ」「既習1年目から受験できるんだったら、ロースクールなんてほぼ無意味だろ」って言いたくなりますよ。まるで、旧司法試験と新司法試験が並行して実施されていた時みたいですね(ロースクール生でも旧司法試験は受験できた)。

 

…ただね。これに反対する有識者団体も、反論のポイントがズレてるんですよ。

例えば、神大の宮澤先生。この方は、当初からロースクール制度の導入をやたらと強く主張した人ですが、在学中の受験について、次のようにおっしゃっています。

既習者コースの1年目から、予備試験や司法試験準備に追われ、多くの人が落ちて、翌年の予備試験や司法試験準備に追われることになる。ロースクール教育の内容がスカスカになる。

 

はい?現状のロースクール制度の下でも、ロースクール生は、既習1年目から司法試験の準備に追われているよ!そして、多くの人が落ちてるよ!

ロースクール教育の内容がスカスカになる?予備試験・司法試験の準備に追われることで、ロースクールのカリキュラムに集中できないという文脈で言ってるんだったら、最初からロースクール教育なんてスカスカだよ!

(ちなみに、宮澤先生がかつて教鞭をとった青学のロースクールは募集停止しています)

 

あと、予備試験についても、合格者の大半がロースクール出身者で占められていることに異を唱え、「経済的にロースクールに行けなかった人」や「実務経験のある人」のために設けられた制度だったはずと主張。

「(法科大学院のない)居住地のみ受験を認める」「法科大学院卒業程度の年齢までの受験制限」「法科大学院生の受験禁止」といったアイデアを提示し、あくまでも、法科大学院ルートとは異なる受験ルートであることを強調しました。

 

私が感じている違和感はただ一つ。

これだけ司法試験制度や予備試験制度を批判しつつも、ロースクールの存在意義には一切言及しないという点。

 

おかしくないですか?定員割れを起こすロースクールが続出し、廃校や募集停止に追い込まれるロースクールまで出てきて、本来の受験ルートではない予備試験の方が一般化してるって。

それも全て司法試験を媒介とした法曹養成の在り方がおかしいって言いたいのかもしれないですが、ほとんどの人が思ってますよ。「ロースクールって、大学の講義の延長だよね」って。

 

以前、これからの時代において何のバリューもない法教育を提供しておいて、国の法曹需要の見通しが甘かったとか、予備試験ルートが一般化するなんて聞いてなかったとか、ロースクール側も被害者面するなよってことを書いたんですが、上述の諸先生方も、いい加減に、ロースクールは予備校と大差無いって認めようよ。

 

バラエティー番組における「やらせ」と「ポスト真実」

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日本テレビの人気番組「イッテQ」において、やらせ疑惑が沸き上がっていますが、テレビのバラエティー番組におけるやらせについて、私は、

 

「一般論として、メディアによる虚偽報道を野放しにすべきではないのは言うまでもないが、バラエティー番組に限って言えば、たとえ番組内容に過剰な演出、事実の捏造等の "やらせ" が含まれていたとしても、番組の趣旨・目的、番組内容に含まれている虚偽部分の内容・程度、一般視聴者が番組内容に対して抱くであろう信頼の内容・程度等の諸般の事情に照らし、当該虚偽部分が、①一般視聴者による番組内容の真実性に対する信頼を過度に毀損するものではなく、②社会通念上妥当と言いうる範囲内にとどまっており、③番組の目的を達成する上で必要不可欠な要素であって、④一般視聴者の番組に対する満足度を高めているとの因果関係が認められるのであれば、当該虚偽部分を許容することが出来る」

 

という独自の規範を持っています(なげぇ)。

 

この規範の根拠を論じるとなると、更に長ったらしい講釈を垂れないといけないので、それは割愛しますが、かなり簡略化して説明しますと、以下のような感じです。

 

(ⅰ) メディアによる虚偽報道・フェイクニュースを公的に規制するにしても限界がある。

(ⅱ) そうすると、メディアの情報に接するにあたって、情報受領者はメディアリテラシーを高めることで対抗するしかない。

(ⅲ)とはいっても、情報の出所や情報源の真正性を全て確認できるわけではなく、ある程度「真実なんだろう」と信頼して情報に接するしかない。

(ⅳ) だから、やらせとは、第1次的には、情報受領者が抱く信頼との関係において問題となる。

(ⅴ) その一方で、バラエティー番組の場合、政治的世論の形成とは無関係なケースが多く、娯楽的な要素が強いので、「演出」として認めても良い領域も存在する。

(ⅵ) だから、やらせとは、第2次的には、バラエティー番組(娯楽番組)が社会的に果たすべき役割や責任との関係において問題となる。

 

イッテQのやらせの場合

問題となっている祭り企画は、イッテQの人気企画であり、当番組の視聴率にも深く関係していたことなどを考慮しますと、「実在しない祭りをでっち上げる」という虚偽部分は、イッテQの必要不可欠の要素を構成しており、一般視聴者の満足度との因果関係も認められると思います。

しかし、「祭り」は地域に根ざした風習・慣習という色彩が強く、場合によっては、宗教的行事・国家的行事としての側面を有していることもあり、一般視聴者からすれば、民間テレビ放送局に過ぎない日本テレビが、海外の風習・慣習を捏造するとは思いもよらず、「そのような祭りが実在するんだろう」と信頼するのが自然であって、当該虚偽部分は、かかる一般視聴者の信頼を殊更に裏切るものと言えます。

また、今回のやらせを受けて、ラオス政府が対応に動き出すなど、国際問題にまで発展しており、当該虚偽部分が社会的妥当性を有しているとは到底言えません。

 

以上より、個人的には、「実在しない祭りをでっち上げる」という虚偽部分は、社会的に許容できるものではないと言わざるを得ません。

どうせだったら、自治体とかに、「新たな祭りを一緒に作りません?」とかけあって、地域を活性化していく企画として売り出していけば良かったのに…と思いますね。視聴者にも説明したうえで。

 

ポスト真実っぽいバラエティー番組?

最後に、バラエティー番組のやらせ問題についてひとつだけ。

下記ニュース記事にも言及されているとおり、バラエティー番組については、やらせを問題視しない意見が一定数存在する一方で、少し違った見方をする人もいるみたいですね。

headlines.yahoo.co.jp

 

それは、「ポスト真実」(※)という視点からバラエティー番組を見たときに、本当に「バラエティーだから良いじゃん」というスタンスで良いのか?という問題意識です。

(※)「ポスト真実」とは、 「事実であるかどうかが重要視されない状況」を意味し、イギリスのEU離脱の際の国民投票、トランプ・クリントンのアメリカ大統領選の頃から使われだした用語・概念。

オックスフォード辞典では、「ポスト真実(post-truth)」を「relating to or denoting circumstances in which objective facts are less influential in shaping public opinion than
appeals to emotion and personal belief.」と定義しています。

(直訳)世論を形成する上で、客観的事実よりも感情や個人的信念に訴えることの方が影響力が大きくなっている環境

 

例えば、海外の人がやたらと日本のことを褒める「日本礼賛番組」。最近よく見かけるやつですね。

海外に居住している日本人からすると、日本のことを礼賛する外国人の方が少なく、こういう番組を見ると違和感を感じるとの意見をよく耳にしますし、こういった番組から取材を受けた外国の方が、演出が過剰だったと証言しているケースも見受けられます。

kaigainohannou.info

 

要するに、このような過剰な演出が、「ポスト真実っぽい」と言うわけです。例えば、こちらの記事を執筆された木野さんもその論者の一人かと思います。

www.from-estonia-with-love.net

 

うーん。どうなんですかね。。

政治的議論が、ある種のショーっぽくなってきた傾向を受けて、「ポスト真実」などと言うようになったんだと勝手に認識してるんですが、バラエティー番組って、最初からショーじゃないですか。ポスト真実と言えばそうかもしれないけど、それを言うんだったら、「昔からポスト真実だよ」と言いたくなりますね。今に始まった話じゃないと言いますか。

少なくとも、私にとって、日本の民間テレビ番組が、「日本は海外から絶賛されています!」と喧伝するのと、トランプ氏が、「オバマ大統領はアメリカ生まれではない!」と繰り返し発言するのは、全くの別物だと感じてしまいますね。

 

ハロウィンで大騒ぎする若者たちと集団暴徒化論

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今日はハロウィンですね。

先週末、渋谷の繁華街では、ハロウィン直前の土日ということもあってか、仮装した若者たちでごった返し、痴漢、盗撮、暴行など、迷惑防止条例違反の容疑で5人が逮捕されたほか、軽トラックを横転させて、車の一部を破損させる器物損壊事件も発生しました(現在、捜査中)。

 

私は、ハロウィンというイベントに全く馴染みがないし、はるか昔、まだハロウィンがメジャーなイベントではなかった頃、大阪駅で仮装している外国人の集団を見かけた際、一緒にその場に居合わせた友人と、「あれは一体なんだ…?」と目を丸くしたことを思い出します。

今でも同じ感覚。ハロウィンを祝う文化が自分の中には無いし、集団で仮装したいという心理もよく分からん。「楽天市場 ハロウィントレンド2018」には、次のように記載されているけども、

「楽天市場」が20~40代の男女600人を対象に実施した意識調査(2018年8月実施)によると、「今年のハロウィンを過ごす場所」については、約8割が「自宅」と回答しました。「誰と過ごすか」については、「家族」と回答した人が過半数となっており、ハロウィンは、自宅で家族と楽しむファミリー向けのイベントとして定着してきていることがうかがえます。

(太字は筆者によるもの)

 

これ、本当なんですか…?(汗)

「自宅で家族と過ごす」と回答した8割の人は、ハロウィンというイベントを家族と一緒に楽しむというより、ハロウィンを祝う習慣がないから、「別にハロウィンだからといって、何も特別なことはせず、自宅で家族と一緒に居るだけ」っていう意識なのでは?普段の日常生活と何ら代わり映えしない「10月31日」なんじゃないの…?

随分と時代遅れな感覚なもので、こういう穿った見方しかできないんですが、皆さんの中でハロウィンってどんな位置づけでしょうか。

 

「集団暴徒化論」について

ハロウィンに対する個人的な印象はこのぐらいにしておいて、近年、ハロウィンで大騒ぎして、メディアに取り上げられている若者たちに焦点を当てつつ、こういった集団行動を規制する際に、よく取沙汰される「集団暴徒化論」のことをちょっと話したいと思います。

ハロウィンにおける集団仮装行動は、「集団行動」じゃなくて「集会」ではないか、そもそも憲法上保障された行為なのか、といった論点設定も出来ると思いますが、いったんややこしい憲法論は置いておきます。

 

かつて最高裁は、デモ行進を規制した公安条例の合憲性に関して、いわゆる「集団暴徒化論」を持ち出しました。「示威行動を行う集団は暴徒化しやすい」というものです。

これがまあ、学者たちの間では大変不評だったわけです。「集団は暴徒化しやすい」という論拠には「根拠がない」と。集団暴徒化論を初めて学んだ際、「確かに、ただの憶測だよな」と思ったものですが、その一方で、私の脳裏にはある光景が浮かんでいました。

 

阪神タイガースが優勝したときに、道頓堀に飛び込んだり、カーネル・サンダース人形を道頓堀に投げ込んでいる阪神ファンの集団です。

 

このときの阪神ファンたちは、紛れもなく暴徒化した集団でした。集団暴徒化論は、一見すると単なる憶測に過ぎないように見えて、実は、誰しもがその経験則上、集団暴徒化論のことを「確からしい」と感じているのではないかと思います。

だけど、デモ行進を規制する公安条例の合憲性を支える論拠として、集団暴徒化論を持ち出されると、なぜか違和感を感じてしまう。この違和感はどこからくるものなのか、私は、阪神ファンが暴徒と化した時から四半世紀以上を経て、渋谷で大騒ぎする若者たちの姿にその答えを見つけたように思います。

 

暴徒化する集団とは

通常、集団暴徒化論が持ち出されるのは、「動く集会」と言われているデモ行進などの集団示威行動を規制する場面においてです。

統一的意思をもった集団が、公道を練り歩きながら、自分たちの意見を "示威" するうちに、気持ちがヒートアップし、あるいは、自分たちと敵対する反対グループや交通規制を行う警官と衝突することによって、「暴徒化」するという論理です。

だけど、阪神ファンや渋谷の若者たちは、デモ行進を行う集団とは明らかに違います。「阪神の優勝を祝う」「ハロウィンを祝う」という、「共通の目的を有している集団」という点では、その類似性を認めることは出来るけれども、彼らは、特定の思想・意見を外部に示しているわけではなく、集団でいることそれ自体が半ば目的化しているのです。

 

それが証拠に、これらの集団は、デモ行進とは異なり、阪神の優勝やハロウィンを祝うための「手段」を共有していません。

その場に居合わせた人と祝福の言葉や抱擁を交わす人もいれば、道頓堀に飛び込む人もいるし、カーネル・サンダースの人形を道頓堀に投げ込む人もいる。仮装をして楽しむ人もいれば、トラックを横転させてはしゃいでいる人もいる。つまり、「目的」だけ共有して、目的を達するための「手段」は、集団を構成する個人に委ねられているのです。

こういう様子を見ていますと、少なくとも私には、「集団示威行動」の果てに暴徒化したのではなく、「集団でいること自体が目的化した集団において、当該集団を構成する個人が、自らの威を示す行動」を行った果てに暴徒化したように映ります。

 

「集団暴徒化論」に思いを致すとき、デモ行進を行う集団ではなく、阪神の優勝を祝うために道頓堀に集った阪神ファンを連想したのは、こういった「目的だけを共有した集団」こそ、暴徒化しやすいと思ったからに他なりません。公安条例の合憲性について、集団暴徒化論を持ち出すことに違和感を覚えるのもこれが理由です。

 

おわりに

ハロウィンで大騒ぎする若者たちに対し、「田舎の大学生が騒ぎたいだけ」と批判する人も多いですが、何をすればいいのかよく分からないイベントを流行させた業界団体にもその責任があるように思います。

ハロウィンって何?仮装するの?他のお宅を訪問してお菓子を貰うの?ホームパーティをするの?渋谷で大騒ぎするの?一体、何をするイベントなのさ??

 

そんなことを考えながら、渋谷で大騒ぎする若者たちに「集団暴徒化論」の真髄を見出したいつも通りの10月31日でした。

 

マリカー訴訟の判決文を読んでみました。

任天堂株式会社が、株式会社マリカー(現商号・株式会社MARIモビリティ開発)及び同社の代表者に対し、著作権法・不正競争防止法違反などを理由として、「マリカー」等の標章の使用の差止めや損害賠償を求めていた訴訟について、昨日、その判決文が公開されました。

(判決文は こちら から閲覧できます)

 

同訴訟をめぐって、任天堂が勝訴したという一報を聞いたとき、「そりゃ、そうだろう」と思いましたが、株式会社MARIモビリティ開発(以下「MARI社」)が、2018年9月27日付で、「地裁判決に関するお知らせ」と題するプレスリリースを発表し、その中に気になることが書かれていたんですね。それがこちらです。

株式会社 MARI モビリティ開発(以下「当社」)及び当社の代表取締役社⻑である⼭崎雄介を被告として、任天堂株式会社より、平成 29 年 2 ⽉ 24 ⽇付で提起されていた不正競争⾏為差⽌等請求事件について、平成 30 年9 ⽉ 27 ⽇付で、東京地⽅裁判所より判決が⾔い渡されましたので、下記のとおり、お知らせ致します。
当社の主張が認められた部分については、当社の主張の正当性が裁判所で認められたことを喜ばしく受け⽌めるとともに、⼀部主張が認められなかった部分については誠に遺憾であり、内容を精査して引き続き対応して参ります。

(下線は筆者によるもの)

 

私は、「当社(MARI社)の主張が認められた部分」というのが、一体何なのかずっと気になっていました。判決文が公開されるのであれば、確認しなければ…!ということで見てみました。

 

外国人に対する「マリカー(maricar)」の周知性は否定されている。

東京地裁は、被告に対し、「マリカー」等の標章を、営業上の施設及び活動において使用してはならず、営業上の施設、広告宣伝物及びカート車両から抹消するように命じていますが、よく見ると「外国語のみで記載されたウェブサイト及びチラシによるものを除く。」とされています。

「これはなんぞ?」と思い、判決文を読み進めていくと、「マリオカート」の略字である「マリカー」という文字表示の周知性について、東京地裁は、過去のマリオカートシリーズのゲームソフト出荷本数、ゲーム雑誌の記事等に言及しつつ、次のように判示しているんですね。

マリカーは,広く知られていたゲームシリーズである「マリオカート」を意味する原告の商品等表示として,本件証拠上、遅くとも平成22年頃には,日本全国のゲームに関心を有する者の間で,広く知られていたということができる。

(中略)

他方,前記のとおり,日本語を解しない者の間では原告文字表示マリカーが周知又は著名であったとはいえず,それらの者の間では,原告文字表示マリカーとの関係において,被告標章第1に接した需要者に対し,それを付した営業が原告又は原告と関係があるとの混同のおそれを発生させるものとはいえない。

(中略)

本件レンタル事業の需要者には日本語を解しない者もいるところ,被告会社は,外国語のみが記載されたウェブサイトやチラシを作成等していて,日本語のウェブサイト等がある状況でこれらは日本語を解しない者のみを対象とするといえる。前記に照らし,日本語を解しない需要者のみを対象とする行為において被告標章第1を表示することを差し止め,これらの広告宣伝物から同標章を抹消させることは認められ(ない)。

(太字及び括弧内の表記は筆者によるもの)

 

これは、「マリカー」等の標章が、外国人にとって周知かつ著名とはいえないとする被告・MARI社側の主張が認められた形となっています。

ということは、外国語で作られたサイトなどでは、「maricar」という標章を使用しても良いということになりますが、これは任天堂からすると、かなり悔しい部分じゃないかな…と思います(MARI社の主要ターゲットは、訪日外国人観光客であったため)。

 

著作権侵害の主張は排斥されている。

本訴訟では、MARI社が貸与しているコスチュームや宣伝のために用いている写真・動画が、マリオやルイージといった任天堂の著作物を無断で複製、翻案、公衆送信等するものとして、著作権侵害の有無も争点となっています。

これに対して、被告側は、「抽象的,一般的な差止請求は認められない」として、争う姿勢を見せ、マリオの帽子や衣服のデザインにつき、「このような帽子や衣服のデザインに著作権法の保護を与えれば,新規性や創作容易性といった厳格な要件をクリアしたもののみ20年に限って独占的実施を認める意匠制度の存在意義がなくなってしまう」などと主張。

 

東京地裁は、次のように判示して、著作権侵害の主張を退けました。

原告表現物を複製又は翻案する行為には,広範かつ多様な行為があるところ,原告の請求は,絵画の著作物である原告表現物を絵画上複製するという行為がされていない本件において,差止めの対象となる行為を具体的に特定することなく,広範かつ多様な態様な行為のすべてを差止めの対象とするものといえ,自動公衆送信又は送信可能化の差止めについても,その差止めの対象自体を複製物又は翻案物とすることから,同様のものといえる。このような無限定な内容の行為について,被告会社がこれを行うおそれがあるものとして差止めの必要性を認めるに足りる立証はされていない。

(太字は筆者によるもの)

 

なお、マリオやルイージを連想させるコスチュームの著作権侵害については、不正競争防止法に基づくコスチュームの使用禁止を求めた請求と選択的併合の関係に立つものとして、「本件各コスチュームが原告表現物の複製物又は翻案物に当たるか否かは判断するには及ばない。」としています。

この東京地裁による判断についても、「抽象的、一般的な差止請求は認められない」という被告側の主張が認められる形となっています。

 

とはいえ、敗訴であることに相違なし。

判決文を読むと、MARI社側の主張が認められた部分というのが何なのか分かりましたけど、結局、コスチュームの貸与ができず、カートから「マリカー」という標章を削除しなければならないのであれば、従来のビジネスを継続することは困難であり(今も継続して営業中らしいですけど)、敗訴であることに変わりありません。

天下の任天堂を敵に回してでも、訴訟を続ける姿勢を崩さないMARI社ですが、どこまでこの争いは続くのでしょうか…。

 

海賊版サイトのブロッキング議論におけるユーザーのハブられ方

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 いわゆる海賊版サイトのブロッキングをめぐって繰り広げられている議論を見ていますと、何と言いますか、「ユーザーのハブられ方、半端ないって!」と言いたくなります(すみません、思い切り乗っかりました)。

 

 この種の議論は、思い返せば、児童ポルノサイトに対するブロッキングが発端だったと思いますが、その時は、権利侵害の深刻さ、早急に権利を保護すべき緊急性等の観点より、現在の危難の存在、補充性、法益権衡という緊急避難の要件を満たすことに疑いはなく、特に強い異論はなかったように思います。

 しかし、民主的プロセスを経なかったことの弊害は大きく、海賊版サイトについてもこの理を拡大し、児童ポルノサイトのブロッキングが可能なのであれば、海賊版サイトについてもブロッキング出来るだろうと安易に行政が判断して、ブロッキングという超法規的措置(超例外措置)を、立法措置を経ることなく、ISPに要請してしまっている異常事態が起こっています。

 

ドワンゴ川上氏の意見に違和感

 ブロッキング肯定派のドワンゴ・川上社長(知財本部・インターネット上の海賊版対策に関する検討会議メンバー)は、ご自身のブログにおいて、政府の対応に対し、以下のようにコメントされています。

結論からいうと、今回の緊急避難的な3サイトのブロッキングについて、積極的な姿勢を示した政府の決定を支持します。ネットなどをみても、議論に時間をかけていない、いきなりすぎると、批判の声があがっていますが、政府がいかに緊急の事案であったとしても、こんなに迅速に対策を練り、実行にうつすのは珍しいことではないでしょうか。普段、政府の行動の遅さ、危機感の無さに文句をいっているであろう我々が、政府の行動が早いことに対して、まず批判から入るのはフェアではないと思います。

(川上量生 公式ブログ「ブロッキングについて」)

 

 ブロッキングの是非はさておくとして、氏は、上記のように述べつつ、その後、「もちろん、法治国家として法制化を先行するべきだという意見は、正論です」と前置きしたうえで、次のようにも述べています。

そもそも法治国家の根幹とは「法を執行できること」ではないでしょうか。

(ブロッキングの根本の問題は)海外のインターネットを使って、日本の法律を適用できない場所を意図的につくる犯罪者に対して、どういう強制執行力をもてるかという問題なのです。

(括弧内の文言は筆者が追加したもの)

 

 これを「自己矛盾」と感じるのは私だけでしょうか。

 海賊版サイトに対する適法な権利行使については、法治主義の実効的側面を重視しつつ、他方で、ブロッキングのような根拠法令の存在しない超法規的措置について、国家作用の法律適合性を問題としないのはかなり疑問です。法治主義をかなり都合の良いように解釈している印象を受けざるを得ません。これこそ「ブロッキングありきの議論」ではないでしょうか。

 

民主的プロセスに解決を委ねるべきである。

 断っておきますが、海賊版サイトを野放しにしても良いとか、ブロッキングはやってはいけないとか、そういう主張ではありません。出版社などの権利団体や政府の意向を踏まえて、何れにせよ「民意を問うべき」だと思います。そうでないと、当事者であるはずのユーザー(国民)がハブられ続けることになるからです。

 

 その際、是非議論して頂きたいのは、ブロッキングの有効性もさることながら、海賊版サイト以外の違法サイトへの対応はどうするのかという点。著作権だけが特別の保護を受けるのは何故なのかという疑問を呈している森弁護士と同意見です。

news.nicovideo.jp

 

 職業柄、違法性の疑いの強いNGサイト等をリストアップしたりしますが、海外にサーバーを置いて、「どうせ摘発できっこないだろ」という態度で運営しているサイトは山ほどあります。これは著作権侵害に限らないです。わいせつ動画の配信、違法医薬品等の販売、公安委員会への届出のない事業者による出会い系サイト…等々。挙げればキリがありません。

 そんな違法サイトを目にすることが多い者の立場からすると、海賊版サイトによる被害額の大きさなどに一定の理解は示せるものの、「じゃあ、それ以外の違法サイトは?」って、どうしても思っちゃうのです。なんで、著作権侵害 “だけ” は特別扱いなの?と。

 

 そういった点を含めてテーブルに乗っけてもらって、海賊版サイトへのブロッキングの是非をとことん議論してもらいたいと思います。

 

【CoinHiveマイニング】不正指令電磁的記録供用罪の成否をめぐる議論について

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 「CoinHive」の仮想通貨マイニングプログラムを自身のサイトに設置し、閲覧者のPCに指示を送り、閲覧者がこの事実に気づかないまま、強制的にCPUを使用してマイニングをさせた行為(以下、本記事において「本件行為」といいます。)につき、不正指令電磁的記録供用などの罪で摘発されたという直近の事件について、私が思うことをあれやこれやと書いてみます。

 

 なお、事件の詳細を知りたい方は、実際に摘発されたご経験を持つモロさんのブログが非常に参考になると思われます。

doocts.com

 

マイニングプログラムを用いる行為の違法性

 マイニングプログラムをめぐる一連の議論の一端を見ていますと、どうも私は立法の不備があったように思えてなりません。ますは、この点をツラツラと書いてみます。

 

① 「意図に反する動作」について

 刑法第168条の2によれば、「人が電子計算機を使用するに際してその意図に沿うべき動作をさせず、又はその意図に反する動作をさせるべき不正な指令を与える電磁的記録」を、「正当な理由がないのに、・・・人の電子計算機における実行の用に供した」場合に、不正指令電磁的記録供用罪が成立するとされています(同条第1項及び第2項)。

 本件行為はまさに、「意図に反する動作をさせるべき不正な指令を与える電磁的記録」を供用したという疑いを持たれているわけですが、そもそも「意図に反する動作」とは何ぞやと考えていくと、あまりにも広範且つ曖昧な概念のように思えてきます。

 

 法務省の見解によりますと、同罪の保護法益は「電子計算機のプログラムに対する社会一般の者の信頼」とされています。誤解のないように付け加えておきますと、これは個人的法益ではなく社会的法益です。

 同罪が、プログラムに対する信頼という社会的法益を保護するものだとすると、意図に反するものであるかどうかは、実際にマイニング行為をさせられたユーザーの個別的な主観ではなく、社会通念に従い、普通一般人の意図に反するか否かという観点から判断されることになると思われます。

 

 しかし、ネットユーザーの属性は様々であり、どのような場合に「意図に反する」といえるかは、一概に判断できません。今回のように、他人のパソコンのCPUを勝手に借用していたとしても、ユーザーによってはそれを事前に予測しているケースも考えられますし、まだ十分に認知されていないプログラムであるという点を考慮するにしても、アドセンス広告や行動ターゲティング広告はどうなんだって話ですし、人によっては、オーバーレイ広告やポップアップ広告の方が不快と感じることもあるでしょう。

 にもかかわらず、そのような広告手法を不正指令電磁的記録供用罪と断ずる意見や事例を聞いたことがありません。警察側は、ネット広告は閲覧者が表示を認識することができ、あるいは、表示に同意しないなら閲覧を中止することも可能であるという点において、両者は異なると言いますが、その理屈で言うならば、「世の中のいろいろなJSがアウト」というモロさんの指摘に対し、どのように反論するのでしょうか。

 

②「不正な指令」について

 仮に、「意図に反する動作」であったとしても、不正指令電磁的記録供用罪が成立するためには、それが「不正な指令」に基づくものであることが必要になります。立法当時、法制審議会においても次のように議論されています。

 

意図に反するものであっても,正当なものがあるのではないかというような御質問もあったかと思いますが,その観点からは,この要綱の案におきましては,対象とする電磁的記録を「不正な指令に係る電磁的記録」に限定しておりまして,例えば,アプリケーション・プログラムの作成会社が修正プログラムをユーザーの意図に基づかないでユーザーのコンピュータにインストールするような場合,これは,形式的には「意図に反する動作をさせる指令」に当たることがあっても,そういう社会的に許容されるような動作をするプログラムにつきましては,不正な指令に当たらないということで,構成要件的に該当しないと考えております。

法制審議会刑事法(ハイテク犯罪関係)部会第1回会議 議事録

(下線は筆者によるもの)

基本的に,コンピュータの使用者の意図に沿わない動作をさせる,あるいは意図している動作をさせないような指令を与えるプログラムは,その指令内容を問わずに,それ自体,人のプログラムに対する信頼を害するものとして,その作成,供用等の行為には当罰性があると考えておりますが,そういうものに形式的には当たるけれども社会的に許容できるようなものが例外的にあり得ると考えられますので,これを除外することを明らかにするために,「不正な」という要件を更につけ加えているということでございます。

法制審議会刑事法(ハイテク犯罪関係)部会第3回会議 議事録

(下線は筆者によるもの)

参照:「懸念されていた濫用がついに始まった刑法19章の2「不正指令電磁的記録に関する罪」」高木浩光@自宅の日記

 

 そして、「不正な指令」の判断基準について、法務省は、「プログラムによる指令が『不正』な物に当たるか否かは、その機能を踏まえ、社会的に許容し得るものであるか否かという観点から判断することになる」としています(「いわゆるコンピュータ・ウイルスに関する罪について」法務省ホームページ・3頁)。

 しかし、この「社会的に許容し得るものであるか否か」という基準についても極めて曖昧であると言わざるを得ません。そもそも、ConiHiveは、昨年9月にスタートしたばかりであり、これが社会的に許容されるマネタイズ手法であるかどうかも十分に議論されておらず(世論が構築されておらず)、警察が一方的に「社会的に許容されない不正な指令だ!」と息巻いている状況なのです。

 もしかしたら、「鬱陶しい広告が表示されるぐらいであれば、CoinHiveのマイニングプログラムを設置してもらった方がいい」と考えるユーザーが増え、このようなマネタイズ手法が社会的に広く許容される時代が来るかもしれません。その余地が残されている状況下において、不確定要素の多い「社会的許容性」を拠り所とするのはナンセンスでしょう。これから先も、同じようなケースに何度もぶち当たることは想像に容易いですよ。

 

ネットユーザーたちの「意図」はどこにあるのか。

 先月、GDPRが施行されるなど、情報セキュリティは新たなステージへ移行しつつありますが、その一方で気になるのは、このような環境の変化に対応できるユーザーと、置いてけぼりを食らうユーザーとの間の情報格差です。

 甲南大学法科大学院の園田教授は、本件事案について、「技術者にとっては常識的な技術でも、一般の利用者にすれば、自分のパソコンが他人に道具のように使われているとは想像できないだろうし、そうされたいとも思わないだろう」とコメントしていますが、「本当にそうかな?」と思います。マイニングの意味を聞かされても、それが「良いこと」なのか、「悪いこと」なのか、ピンとこない人も沢山いるんじゃないかと思っちゃうのです。

 このような時代にあって、ネットユーザーの「意図」を軽々しく論じることは憚られるし、そのような流動性の極めて高い要素に依拠して犯罪の成否が左右されるという点において、私は、不正電磁的記録に関する罪の立法的欠陥があるように思えます。

 

潜在的な「通り魔予備軍」と相互監視社会が担う役割

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  つい先日、ニュースなどで流れていましたが、新宿駅で女性にわざとタックルする男性の動画が話題になっていますね。

 

www.j-cast.com

 

 肩がぶつかるぐらいだったら、ただの迷惑行為ぐらいで済むかもしれません。ただですね。もし仮に、ぶつかった拍子に相手の女性が転倒し、ケガでもさせたられっきとした刑事事件になります。

 なので、もしこういう男性の標的にされて、タックルされたら、演技でもいいので転んでみたり、思いっきり痛がってみましょう。本人もまさか大ごとになるとは思っていないはずなので、たぶん慌てふためくと思います。あるいは、女性しか狙えないチキン野郎なので、その場から逃げ去ると思います。

(もちろん、本当にケガしそうな危険なタックルなのであれば、自らの身を守ることを第一に考えるのが前提です)

 

 とまあ、私が思う対処方法はそのぐらいにして、本題に入ります。

 今回の件を目にして、私が思うことは、まず一つ目に、こういう無差別な迷惑行為を行う通り魔予備軍が、一定数私たちのすぐ身近に潜在しているということ。もう一つは、これまでは検挙に至らなかった通り魔暴行犯を検挙できるかもしれない世の中になってきたということ。主にこの2つです。

 

通り魔事件の検挙件数の推移から見る実情

 法務省の公表している「犯罪白書」や、警察庁が公表している「犯罪情勢」を見る限り、平成5年以降、通り魔殺人事件の検挙(認知)件数は、平成20年の14件を除けば、いずれも9件以下で推移しています。これは、昭和55年の統計にまで遡ってみても、同じような件数で推移しているように見受けられます。

(昭和55年以降、通り魔殺人の検挙(認知)件数が10件を超えた年は、昭和57年、昭和60年、昭和63年、平成8年、平成10年、平成20年だけです)

 

 つまり、直近の約40年間、日本における通り魔殺人は、増えるわけでもなく、かと言って減るわけでもなく、年によって多少の振れ幅はあるものの、一定数を保ちつつ推移しています。

 そして、(古いデータになってしまいますが)昭和57年の犯罪白書を紐解きますと、通り魔事件の発生件数は、総数254件、罪名別では、殺人が7件、傷害が112件、暴行が25件となっています。同資料において、「被害者と全く無関係な犯人による通りすがりの犯行であるため、犯行後犯人が逃走した場合、その特定が難しく、検挙が困難」という記述があることから、おそらく、検挙に至らなかった暴行傷害事件が、通り魔殺人事件の背後に相当数潜んでいると思われます。

 

 そう考えていきますと、話題の彼は、今のところ、ただぶつかっているだけなので可愛いものですが(迷惑極まりないですが)、むしゃくしゃがエスカレートされていき、そのうち、女性を殴りつけたり、凶器を使って殺傷するなどの犯罪行為に及ぶのではないかと疑ってしまいますし(ただ、話題の彼については、そこまでの度胸はないと思いますが)、そういう「通り魔予備軍」が、一定数自分たちの身近に存在するということを、我々は常に頭の片隅に置いておかなければならないと思います。

 

相互監視社会の到来によって泣き寝入りは減る…かもしれない。

 通り魔事件のうち、殺人事件については、犯罪認知後、年内に検挙されることが大半です。秋葉原無差別殺傷事件のように、大勢の人混みの中で犯行に及び、その場で現行犯逮捕されることもあります。

 しかし、上述のとおり、殺人には至らない傷害、暴行、痴漢等の通り魔事件の場合、犯行後、すぐに犯人がその場を後にすると、現場には証拠らしきものは何も残らず、被害者と特定の接点を持たない犯人を特定することは困難を極めることになり、被害者は泣き寝入りせざるを得ないことがほとんどでした。

 

 こうした流れの中で、近年、監視カメラの設置数の増加とともに、スマートフォンが爆発的に普及したことにより、突発的に発生した犯罪であっても、写真や動画という形で証拠保存することが可能な相互監視社会が到来しました。先日の日大と関学大のアメフトの試合においても、問題となった反則行為は動画という形で鮮明に記録されています。

 そして、今回の迷惑行為についても、バッチリ動画という形で記録されています。監視社会の到来によるプライバシー権(自己情報コントロール権)の侵害の問題とか、ロースクール時代に憲法の論文試験で出題されたような気もしますが、このような相互監視の傾向は、犯罪の抑止・検挙に資するものであることはもはや疑いようがないと思われます。これまでだったら泣き寝入りせざるを得なかったような通り魔事件であっても、今後、多少なりとも検挙率が上がることを期待します。

 

通り魔予備軍のうちに心の闇に光を照らす社会を。

 凶悪な無差別殺傷事件を起こした犯人の供述を聞いていますと、歪んだ正義を持っている犯罪者もいますし、ハッピー・スラッピングのような愉快犯もいますが、社会に対する不満や劣等感が徐々に蓄積され、ある時、その不満が一気に爆発する犯罪者もいます。

 話題となっている彼も、何かしらイライラするようなことがあったんだと思います。自分より弱い立場にある女性にわざとぶつかってストレスを解消しているつもりなんでしょう。やっていることは本当に幼稚なんですが、彼の抱えるストレスが一過性のものではなく、彼の心を覆いつくす闇なんだとしたら、彼のタックルは、迷惑行為であると同時に、SOSサインでもあると思うのです。私にはそう見えます。

 

 良い歳をした大人が、そんな形でしかSOSを出せないこと自体、おかしな話なんですが、拡散された動画を見た彼の友人や身近にいる人間が、彼の異変に気付いてあげられたら良いなと思います。最終的に、自分の心と向き合うのは本人ですし、これから先の人生は全て彼自身の責任ですが。

 そんなことをあれこれと考えていきますと、相互監視社会の到来は、これまで泣き寝入りをせざるを得なかった被害者を救済するだけでなく、社会の雑音の中に消えゆく運命にある人々の心の闇とSOSの声に対して、スポットを当てることにもなるんじゃないかとも思えます。