【ネット表現・N国党】表現の自由はどこに向かうのか?

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NHKから国民を守る党(以下「N国党」)の代表・立花氏が、N国党のことを「気持ち悪い」等と批判したマツコ・デラックスさんに激高し、「5時に夢中!」の生放送が行われているTOKYO MXに抗議に出向くなど、彼の一連の行動がにわかに批判を浴びています。

 

ここで問題とされているのは、現職の国会議員が、一般国民の表現活動に圧力をかけるような抗議を行っているという点です。小林よしのりさんは立花氏の行動を「言論弾圧」と断じていますね。

 

N国代表は数々の特権を持つ国会議員である。
もう権力者の側にいるのだ。
彼は国民が払う税金で働き、食う身分である。
主権者たる国民によって仕事をさせてもらえる身分なのだ。

マツコ・デラックスはたくさん税金を払っているだろうから、N国代表はマツコに食わせてもらっているのだ。
なぜマツコの言論を弾圧できる?

権力者が国民の言論を封じる、これを「言論弾圧」という。
マツコは「言論弾圧」に負けてはいけない。
自由にN党を批判せよ!
やはりN党には「公」がないのである!

(小林よしのりオフィシャルWebサイト「マツコ・デラックスはN党・権力者の言論弾圧に負けるな 」より引用)

 

私は、この意見に対して、違和感を感じています。

と言うのも、小林さんは立花氏のことを「権力者の側」とポジショニングしたうえで、「国家権力」対「私人」という対立関係を想起していますが、この問題に関してはどうしてもそのように思えないからです。そもそも「言論弾圧」とは思えないですし。

 

これが、表現の自由の現代的課題を如実に表わしていると思うため、少し書いていきます。

 

 

立花氏の抗議は「言論弾圧」か?

私は、立花氏の行動を非常識だと思うものの、「言論弾圧」とまでは思いません。

 

と言いますのも、立花氏は、「放送をやめろ」「マツコを番組から降ろせ」と言っているわけではなく、「反論の機会を付与せよ」「正々堂々と議論せよ」と抗議しているのであって、国民の言論を封じる意図が無いことは明白です。

それどころか、国民の言論活動の中に飛び込んでいって、白黒はっきりつけようとしているのです。これを言論弾圧と言うなら、「国会議員は市民活動をするな」「国会議員は私人間の討論に参加するな」と言っているのと同じです。

 

また、マツコさんはマスメディアに属する人気テレビタレントとして、一般国民とは比べものにならないほどの発言力・影響力を持っている一方で、立花氏はまだ国会議員1年生です。この2人を比較すると、マツコさんの方がよっぽど「権力側の人間」ですよ。

それなのに、立花氏が国会議員であるという一事をもって、彼の行動を「言論弾圧」と非難するのはあまりにも形式的な議論であり、事実上の上下関係を無視している印象を受けます。

 

さらに、国民の表現活動が委縮してしまうおそれ(いわゆる「委縮効果論」)についても触れておきます。

一般的に、表現活動に対する「委縮効果」とは、政府が表現規制の一環として罰則を課すなど、表現の委縮に繋がる明確なディスアドバンテージが存在する場合を想定しています。言葉遣いが畏怖感情を抱かせるようなものだとか、態度が威圧的だとか、そのような抽象的な理由で表現の委縮効果が説かれることはありません。

(もし、これを肯定するならば、反対解釈として、優しい言葉遣いであれば国民の言論活動にいくらでも圧力をかけてもいいということになりかねません)

 

というわけで、私は、特に言論弾圧とは思いません。

小林さんは、立花氏の抗議について、「国会議員としての品位を欠く非常識な行動だ」と非難すればいいのであって、何でもかんでも表現の自由と結びつけて「言論弾圧だ」と軽々に論ずるのは如何なものかと思ってしまいますね。

 

「権力側の人間」であることが問題ではない。

はい、言論弾圧についてはこのぐらいでいいでしょう。

むしろ、ここからが本題です。

 

小林さんは、立花氏を「権力側の人間」と位置付け、権力側の人間が私人の表現活動に圧力をかけていることが問題だとしています。日本の統治構造からすれば、この問題提起はそのとおりなんですが、問題の本質は本当にそこなんですかね…?

繰り返しになりますが、そういう立論をするのであれば、マツコさんだって権力側の人間じゃないかって話になりますしね。

 

私はこう思います。

今回の立花氏の抗議にインパクトを感じるのは、彼が国会議員だからではなく、ネット上で一定の支持を集める人気Youtuberだからのように感じるのです。仮に、立花氏が全く無名の国会議員だったとしたら、今回の一件についてもたぶん鼻で笑われて終わりでしょう。

だとすれば、立花氏が国会議員であるかどうかなんて、実は大した問題ではなく、「ある程度民意を左右することのできるインフルエンサー」という点こそ重視されなければならないと思えてきます。

 

私は、このインフルエンサーの存在こそが、現代における表現の自由を「良い意味」でも「悪い意味」でも変容させていると考えています。

 

現代の権利意識とネット表現が果たすべき役割

インフルエンサーのことを話す前に、少し前置きを。。

 

ネット表現手法が多様化した現代において、国民は情報の送り手としての地位を獲得するに至りましたが、ネット社会における「表現の自由」の権利意識は、従来のマスメディアのそれとはまるで違います。

 

例えば、SNS等において、自分の意見が否定ないし批判されると、「嫌なら見なければいい」と言って反対意見を遠ざけようとする人がいます。その背景には、「自己実現を達成するために、誰からも邪魔されずに表現活動を行う自由」という意味における「表現の自由」の権利意識があるように思います。これがネット社会全体に蔓延しています。

 

しかし、これは「表現の自由」の意義をはき違えています。

歴史的経緯に照らして、「表現の自由」とは、「表現活動の国家権力からの自由」を意味しており、「他者から批判されない自由」を含むものでないことは明白です。当然、表現に接した他者からすれば、表現の自由の一環として批判する自由があるわけで、「批判されるのが嫌なんだったら最初から表現しなければいい」って話になります。

 

じゃあ、なんでそういう本来の意味とは異なる権利意識が根付いてしまったかと言うと、現代のネット社会においては、「自身の意見に直接アクセスしてくるユーザー」や「利用規約等で禁止コンテンツを定めるプラットフォーム」といった目前の私人こそが表現者の "敵" であり、表現の自由を「国家権力からの自由」という従来の意味ではなく、「自己実現を妨げる者からの自由」という広い意味で再構築する必要があったからだと個人的に考えています。

 

このように、自己実現を軸に考えるのが、現代における表現の自由の権利意識の正体ではなかろうかと。しかし、この考え方には「民主政への関与」「民主政の発展」という重大な視点が抜け落ちています。

 

そもそも、なぜ近代立憲主義社会において、表現の自由が保障されるに至ったか。

それは、政治的プロパガンダであろうが、国家に敵対する言論であろうが、それが公共の福祉を害するようなものでない限り、いったん議論のテーブルに乗せることを認めたうえで、真実性や妥当性のチェックについては民主政のプロセスに委ねて、その過程において様々な意見を戦わせることにより、真実に反する主張や妥当性を欠く主張は自ずと淘汰され、人類は真理に近づけるはずだ…という理解が背景にあり、このような表現の自由が持つ真理発見機能が民主政の発展にとって必要不可欠だったからに他なりません。議会制民主主義もこの理解を前提としています。

 

民主政の過程における「強い表現者」

上記の理解を前提とすれば、ネット表現とは、単に自己実現を達成するための手段にとどまらず、権力に対抗するための手段でもあると言えるわけです。

もちろん、これまでも「インフルエンサー」と呼ばれる人たちが、政権を批判するような言論活動をTwitter等で行っていて、重要な役割を担ってきたんですけど、テレビに出ているコメンテーターと同じで、民主政への関与は間接的・限定的でした。

 

そこにきて、立花氏のような民主政に直接関与する「強い表現者」が初めて出てきたのです。

立花氏は、口が達者というだけでなく、多少の批判であれば跳ね返すことのできる理論を持っているし、「NHKをぶっ壊す!」という国民の潜在的な問題意識に訴えるメッセージを効果的に使ったり、NHK職員との政治的口論をショーとして見せるなど、権力を打倒するために必要となる「強さ」を持っています。これがネット民に支持されて、議席を獲得するに至ったのです。

(従来の「インフルエンサー」の枠を超えた強さを持っていることから、「強い表現者」と勝手に呼ばせて頂いています)

 

このような「強い表現者」の存在は、ネット表現を「単なる自己実現のための手段」から「権力に対抗するための手段」にまで押し上げた点で非常に有意義だと思います。「横の関係」から「縦の関係」に変えたとでも言いましょうか。間違いなく表現の自由の現代的変容のうち、最も特徴的・象徴的な出来事でしょう。

 

小林さんは、立花氏の国会議員としての地位を形式的に捉えるのではなくて、なぜ有権者から支持を集めるに至ったのか、表現者としての特徴を見た方が良いと思いますね。

そうでなければ、なぜネット民が、立花氏のことを「既得権益に立ち向かう国民の代弁者」と捉え、マツコさんのことを「打倒すべき権力側の人間」と捉えているかが分からないと思います。

 

民主政の過程における「弱い表現者」

確かに、立花氏のような「強い表現者」は、これからのネット表現において歓迎されるべきであるし、民主政の発展に欠かすことのできない存在だと言えますが、その一方で、結局のところ、民主政に直接関与できるのは「強い表現者」だけであり、「弱い表現者」である大多数の国民は、「強い表現者」に依存することでしか権力に対抗できないということを再度確認したにすぎない…という見方も可能だと思います。

 

例えば、N国党への批判に対して、立花氏は、自身のYoutubeチャンネルでいくらでも反論できるけれども、それ以外の人はほとんど有効な対抗手段を持ちません。「強い表現者」である立花氏に頼ることでしか権力に対抗できないのです。反論権などを認めるなら話は別ですが、法令の根拠がなく判例も否定的ですしね。

 

このように、「弱い表現者」が「強い表現者」に依存してしまう宗教的な構造が、表現の自由の現代的課題だと私は考えています。

「力を持たない視聴者」が「テレビタレント」を信奉するのと同じように見えますが、テレビタレントは少なからずスポンサーの意向に左右されるのに対して、ネット表現者にそのようなしがらみはありません。凄い悪い言い方をすれば、「しがらみのない権力者」になってしまう危険性を秘めていることが、今回の問題の本質ではないかと思います。

(立花氏は、公営放送のスクランブル化以外は、直接民主主義によると公言していますが)