少年革命家・ゆたぼん君を持ち上げている周囲の大人に思うこと。

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最近、「ロボットになりたくない」との理由で、不登校を貫いている「少年革命家」こと、ゆたぼん君が話題になっとりますが、個人的には、ゆたぼん君を持ち上げている周囲の大人に対して、ちょっと思うことがあります。

 

なお、ゆたぼん君の詳細事項については割愛します。なぜ、彼が話題になっているのか知りたい方は、各自お調べください。

 

10歳の子どもを過大評価しすぎ。

10歳ぐらいの子どもは、確固たる思想とかイデオロギーなんか持って無くて、「体験」を積み重ねている最中です。教師から叱られたり、友達と喧嘩したり、親と衝突したり、そういった「体験」を積み重ねていって、確たる "人格" を作っている過程なのです。

 

だから、本人(とお父さん)には大変失礼だけれど、「学校に行かない」という生き方を裏付ける立派な考えが、仮にゆたぼん君にあったとしても、それは年齢を重ねるにつれて容易に変わってしまう可動的なものであって、そのような子どもの考え方を、周囲の大人が支持しているのを見ると、酷く滑稽に見えてしまうのが本音です。

 

というのも、ゆたぼん君の考え方を支持している茂木さんや堀江さんは、ちゃんと大学を出ており(ただし、堀江さんは大学中退)、日本の学校教育がどういうものなのかを「体験」しています。つまり、自身の考え方を裏付ける「体験」があるのです。

しかし、ゆたぼん君にはそれがない。「学校に行かなくても良い」という考え方は、一見すると茂木さんや堀江さんと同じに見えるけれど、その意味は全然違っていて、裏付けとなる「体験」がないから、今後変わってしまう可能性を秘めています。

 

例えば、徐々に世間がゆたぼん君に対する興味を失い、Youtube動画の再生回数が伸びなくなった結果、かつて自分に向けられていた注目は一過性のものだったと気づき、自分の将来に漠然とした不安を抱く日が来るかもしれません。

あるいは、自分は自由に生きているように見えて、実は、父親に支えられて生きているということに気づき、それと同時に、自分の力で稼ぐことがどれだけ大変かを思い知り、日本が「学歴」や「経歴」によって支配されているヒエラルキー社会である現実に直面する日が来るかもしれません。

あるいは、ロボットみたいだと思っていた同級生たちが、大企業に就職したり、官僚になったり、海外に勤務したり、医者や弁護士といった専門職に就いたり、社会で活躍している姿を見て、そのような同級生たちを「羨ましい」と思う日が来るかもしれません。

 

茂木さんや堀江さんは、そういった日本社会の既存構造を熟知したうえで、それでも学校教育に「NO」と言える体験を持っているけれど、ゆたぼん君が、様々な社会経験を経て、同じ考えに達するとは限らない。「やっぱり学校に行っとけば良かった」という考え方に至るかもしれない。そういう危うさを持っているのです。

ゆたぼん君を1人の「人間」として尊重することは当然としても、1人の「大人」と見ることはできません。彼はまだ10歳の子どもなんです。ゆたぼん君を持ち上げている周囲の大人を見ていると、その点をあまりにも軽視しすぎではないかと思えてなりません。

 

ゆたぼん君は自己責任が取れない。

一方、ゆたぼん君を持ち上げている大人たちは、こんなことを言うかもしれません。

「未来のことを恐れていたら、何も挑戦できない。失敗を重ねながら成長していけば良いじゃないか」と。

 

この理屈は、「自分の選択に対して、自分で責任が取れる人」に言うのであれば、その通りだと思います。

自分の選択によって、どのような利益がもたらされるのか、あるいは、どのような不利益を被るのかを心から理解したうえで、真に自由な意思に基づく公平な判断を下したのであれば、結果に対する「自己責任」が生じ、その経験を生かすも殺すも、「自分の問題」と言えるからです。

 

じゃあ、ゆたぼん君が、「学校に行かない」という選択をしたことによって、何らかの不利益を被った場合、それは「自己責任」という話になるでしょうか。「お前が選んだ人生なんだから、自分で責任を取れよ」と突き放せるでしょうか。

私はそう思いません。なぜなら、「学校に行かない」という選択が、ゆたぼん君の自由な意思に基づく公平な判断だと思えないからです。

 

繰り返しになりますが、子どもは「体験」を積み重ねている発展途上であり、物事の是非弁別を判断するための知識や能力に乏しい状況にあります。

それゆえ、判断能力の欠乏を理由として、子どもが不利益を被らないように、未成年者の飲酒・喫煙を禁止したり、深夜労働を禁止したり、14歳未満の子どもの刑事責任能力を否定する*1などして、国家は後見的に子どもの権利を守っているのです。

 

義務教育制度も同様の趣旨です。

子どもは「教育を受ける権利」を有していますが、どのような教育が、国家・社会の構成員としてふさわしい最低限の基盤となる資質の育成に資するものであるか、又は、人格の完成に必要不可欠のものであるか、子どもには判断できませんし、その判断を各家庭に委ねていたら、子どもの教育を受ける機会が不当に奪われるおそれもあります。

そのため、同級生からイジメられているとか、教師から体罰を受けているといった「正当な理由」のない限り、親は、子どもを学校に通わせて、教育を受けさせる義務を負い、その反面として、子どもの教育を受ける権利を社会的に保障しているのです。

けだし、憲法がかように保護者に子女を就学せしむべき義務を課しているのは、単に普通教育が民主国家の存立、繁栄のために必要であるという国家的要請だけによるものではなくして、それがまた子女の人格の完成に必要欠くべからざるものであるということから、親の本来有している子女を教育すべき義務を完うせしめんとする趣旨に出たものである。

(昭和39年2月26日最高裁大法廷判決)

 

この義務教育制度の枠内で見る限り、ゆたぼん君が「学校に行かない」と選択しても、それは知識や能力が乏しい時分における "自由意思に基づかない" 判断であって、その判断から生じた不利益に対して、ゆたぼん君に責任を押し付けることは出来ません。どんなに格好いいことを言っても、彼は自己責任を取れないのです。

そんなゆたぼん君に対して、「失敗しても良い」「失敗を次に活かしていけば良い」なんて、あまりに酷な言葉だと思いませんかね。

 

さいごに

もちろん、ゆたぼん君が大人になったときに、「学校なんて無意味だった。自分の判断は正しかった」と思うかもしれないし、そういう人生であって欲しいと願いますが、せめて義務教育を受けてから、そう判断しても遅くないんじゃない?と思います。

ゆたぼん君は、たまに気まぐれで、学校に出席することもあるらしいので、「学校に行きたくても行けない不登校児」とは違います。「学校に行こうと思えば行ける不登校児」なのです。学校がいかに無意味な場所であるか検証できる立場にあるのだから、行けば良いと思うんですけどね。

 

あと彼は、学校教育を受けることによって、「ロボットになるかもしれない」と恐れていますが、ゆたぼん君に賛同している茂木さん、堀江さん、ダルビッシュさんは、学校教育を受けてきたものの、ロボットみたいな人間にはなっていません。ビジネスやスポーツの分野で、グローバルに活躍されています。

だとしたら、「学校教育を受けてもロボットになるとは限らない」と分かると思うんですけど、なぜそこまで恐れるのでしょう。もし、私がゆたぼん君の父親の立場で、ゆたぼん君から「ロボットになるかもしれない」と相談されたら、「大丈夫。お前は絶対にロボットになんかならん!」と諭しますけどね。

 

*1:刑法第41条